2006年01月11日 |
毎月2曲、洋楽カバーの着メロの音源を提出している。作業行程はともかく仕上がると楽しい仕事の一つだ。
今回はサイモン&ガーファンクル、スカボロフェア。
この曲は子供の頃、日曜洋画劇場で観た映画「卒業」の中で使われていて知った。映画の細かいストーリーまでは覚えていないが、ダスティンホフマンがキャサリンロスを最後の最後にやはり彼女を必要だと感じ、そして連れ戻しに大胆な行動を起こした所がクライマックスだった。
その先のことには触れずにハッピーエンドで終わる。その頃、何度か同じ日曜洋画劇場で観た「小さな恋のメロディ」と、”先のことはとりあえず抜きで”の印象は、私には似た後味を残した映画だった。
二つの映画は自分には切なく映った。
私にはハッピーエンドの映画ではなかった。
<それで本当に幸せになれるの>
大人の恋にあこがれながらも、
私は冷静に映画が終わると心の中で問いかけていた。
二人の将来ということについて。
この先、この人は自分を幸せにしてくれるのかどうか。この先、この人を自分がずっと愛せるかどうか。
このどちらかの視線を軸に女は男を見ている。
どちらを軸に立つかで、考えることは変わる。
行動も変わり、行方も変わる。
まだ恋が何なのかも知らなかった頃に観た映画。
でも自分の中には無意識に女性の目が存在していた。
あれが女性としての初めての
切なさだったのかもしれない。
二つの映画は恋の映画だった。
愛の映画ではなかった。
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2006年03月29日 |
数年間、移動販売車から牛乳を買っていた。まだ外に買い物に出られない頃にたまたま外に停まったことがきっかけで、お試しで牛乳か何かを買ったことが始まりだった。
以来、水曜日と土曜日の午前中に車は家の近くに停まる様になり、牛乳はこの販売車から買う様になった。
私がここで買う様になってからは、販売車のお兄さんは3人位かわった。最初は近所の人も買っていたが、そのうちにお客は私だけになって、ヨーデルの音楽が遠くから聞こえてきて家のそばで鳴っていると、行かなくちゃ悪い様な気がしてきて、時々それを窮屈に感じる日もあった。
ダンボがこの家にやってきて、彼なりに見ていたことの一つが「ヨーデルの音楽が聞こえると、私が何かを買いにいく」ことだった。そこで買う牛乳のパッケージを彼はいつからか覚え、他のパックの飲み物には反応しなくても牛乳のパックを手にした時だけは「ボクにも頂戴!」と言う様になり、ヨーデルの音楽が聞こえてきたら「来た!」と私を呼びに来るまでになったのだった。
最後のお兄さんが、一番長い間顔を合わせた。少し不服だったのは停車時間が短いので、用事をおいて出ないとあっさりあきらめて移動してしまう。牛乳はここから買っていて水曜と土曜に買うサイクルが出来上がっていたので、車が来ると何をおいても「買います!」とあわてて出て行った。
お兄さんとも軽い会話をする様になった。
1ヶ月半、入院をして家に居ない時期があった。
退院をして家に帰ると冷蔵庫には別の銘柄の牛乳が入っていた。同居人がスーパーで買ったもので、自分が居ない間は誰も車から買い物をしていないことを知った。
もう来ないだろうなぁ。
せめて買いに出られなかった理由ぐらい伝えられたらよかった。
そんな風に思っていたが・・・・。家での生活がまた始まった水曜か土曜日。あの移動販売の車は家の前でヨーデルの音楽を鳴らし停まったのだった。
嬉しかった。
牛乳一本だけの接点しかない、名前も知らない自分を待っていてくれたことが、心身共に落ち込んでいた頃の慰めにもなり、毎週開かないドアを前に待っていてくれたんだ思うと、一人なんだか胸がきゅんとした。
それからまた同じ日々が始まった。水曜と土曜はダンボが「来たよ!」と教えに来て、財布を持って外に出る。
店から物を買うのではなく人から物を買う。
スーパーより割高な牛乳であっても、今度はそこに意味を置いた。
会話は軽い挨拶だけ。
淡々と続く約束のない約束。
でも暮らしの中の一部だった。
ところが。
去年の9月になったある日から、パタっと車が来なくなったのだった。理由はわからない。だが何か事情があるのだろう。取り合えずスーパーで牛乳を買って、次は自分が待つことにした。いつでも戻れる様に暫定的な措置として、牛乳だけは特別扱いで買い物をして過ごしていた。
「来ないね」
「どうしちゃったのかな」
ダンボは牛乳のパックをやはり覚えていた様で、別のパックの牛乳には反応をしなかった。
「もう来ないのかな」
この部屋の水曜日と土曜日は変わっていった。
ダンボも呼びに来なくなって、私もそれに馴染んで行き、もうあの販売車はここには来ないんだと思う様になった。
「もう、来なくなっちゃったんだよ」
私も待つのをもうやめにした。
少しずつ暮らしは移動販売車を忘れていった。
水曜日と土曜日は普通の曜日になっていった。
そしてまた何もない心になり。
穏やかな暮らしをしていた。
なのに。
今朝、あの車が半年以上過ぎてまた家の前に停まったのだった。
丁度同居人が買い物をしに出た直後のことだった。
玄関の小窓から覗いてみた。
あのお兄さんの様にも見えた。
なんで今頃・・・。
ヨーデルの音楽が長く感じた。
どうしよう。
出ていこうか。
とても迷ったが・・・、
動けなかった。
ドキドキしながら黙って部屋で立っていた。
車が去って行く時、切ない感じがした。
追い掛けたい気持ちをグっと抑えて音が消えていく方を見送っていた。
昔、
同じ気持ちになったことがあった。
恋の思い出だ。
どうして今頃・・・。
あの時も自分は足を踏み出せず、ドアを開けられなかった。
お兄さんに対する恋心はなかった。
ただ、サイクルを合わせたり優先順位の置き方など、恋人への忠誠心と似ていたんだろう。
もう戻れない。
いろいろ。
いろいろ、言葉に出来ないけど。
牛乳一本のことで、大袈裟な話だとも思う。
でも。切ない気持ちが体を切って行った。
新しい恋を大事にしようと思った、
あの時と同じ気持ちになった。
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2006年06月08日 |
近くの駅まで買い物に出た。
スーパーのレジに並んでいると、他人の買い物かごの中が見える。何人家族なのかがわかるかご、あまり料理をしない家なのかなと思うようなかご、単身赴任と窺えるかご、レジで順番を待つ間、その人の暮らしを想像することがある。私のかごの中は一人暮らしがわかるかごかもしれない。
私の家のキッチンはそんなに物は充実していない。食器も食器棚に入るだけにしているから、数もそれほど多くはない。でも何故か自分が好きで買った皿やコップは2客ずつある。
理由は割れた時用。
二つ共自分用に買っているので、割れない限りはスペアとして全部自分用になっている。
私は料理が下手だ。
だからそこにはコンプレックスを持っている。料理で男性をつなぎとめることが出来るということも聞くが、向上心がどうしても持てず自分でも自信が持てないことなので、例えば好きな人に料理を作るなんてことは、よほど無防備に弱点を晒せるまで気を許せないと出来ないだろう。そういう意味では私の手料理はスペシャルなのだ。
他人のかごの中を見れば美味しそうに見える。
今日の夕飯は何ですか。
一人で食べる食事を寂しいと思わない。食事を楽しむという習慣がないので私の食事タイムはいつも短い。それで満足をしている。だが一緒に食べたい人が目の前に座っていれば変わるんだろう。
今日も人は夕食を食べる。
一人でテレビを見ながら。
家族と話しながら。
コンビニ弁当の人も居れば
外食で済ませる人も居る。
その日特に悩みがない人もいれば
心が上の空の人も居て
仕事で疲れきっていたり
様々な一日があって、毎日の習慣になっているからいちいち深く考えることもないが、夕食はそんな一日があった体への供給の役割を担っている。
自分が大切に思っている人と一緒に食事をするなら、朝食や昼食よりも様々なことがあったあとの夕食がいい。
例えそれがどんな一日であったとしても。
今日も皿は割れなかった。
二枚並べて向きあって誰かと食事をする夜が、
この部屋であるのかなぁと思う。
二人は食事をする。
どんな話題がいいだろう。
難しい話でもなく。
誰かの噂話でもなく。
若い頃にお守りにしようとした未来の約束でもなく。
明日はどちらかが割れてなくなってしまうかもしれない皿の上だから。
今のお互いの話がしたい。
今日はどんな一日だったのか、そんな話をお互いがポツポツと出来る静かで緩やかな夕食がいい。
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2006年07月07日 |
七夕。曇り。
だが、別に残念ではない。
地上からの覗きに合わずに、彦星と織り姫は厚い雲のシェードの上でデートをしているので、二人にとっては甘いひとときとなっている。
私が残念に思うのは別のことだ。
一年に一度、やっと会えて
そしてそのままあなた方、またおとなしく別れるのですか。
なんで。
そういうのを昔はロマンティックに思っていた。一年に一度、二人は天の川をはさんで会う。結ばれなくても二人はお互いを恋しく想い、そして七夕になればそこに立ち、今年もあなたに会いにきましたと姿を現す。
これも純愛だ。
切ないがお互いが想い合う一つの形。
でも切なすぎやしないか。どうしてそんなに我慢をしているのだ。あんた達はお互い好き同士なんだろう。一体何万光年、このセオリーの中に生きるのか。
会いたくて切ないけれど我慢をする。それもいい。心に正直になると、それは身勝手で愛ではないと言われることもある。でもお互いが好きなんだったら、二人でもっと話をして、どうやったら切ない時間を別の気持ちに出来るだろうと相談をしあってみるのもいいんじゃないか。
こと恋愛に関しては、人はマニュアルに縛られる傾向にある。恋は二人でするもの。二人居るのだから、本当はきっと一人で考えるよりも、心強い結果が出せるケースはたくさんあるはずなのに、恋の場合はなぜかしら普通の話し合いよりもこじれやすい。
「何時になったら帰るの」
また来年まで会えない。
切ない。
寂しい。
天の川は存在しない。
天の川は男脳と女脳の間に出来る心の違いだ。
目に見えない大きな川。
その川幅を二人で埋め合うものだ。
大人になれば矛盾や抱えているものが多くなる。
好きという気持ちが芽生えても、
頭で整理をしがちになっていく。
多くの恋人達がマニュアル通りに悩みつまづいては
見失ってその手を離してしまう。
それでも人は人を好きになる。
やめればいいのに心が好きだと言う。
その気持ちに蓋をして涼しげな顔をしているだけだ。
そんなのつまらない。
かえって空しい。
本物の恋なら人生に決してダメージを与えない。
苦しかったり切なかったりすることがあっても
くれるのは充実だ。
今年、彦星と織り姫はどうするんだろう。
もう帰らない。戻らない。
この天の川の両岸から「あなたの方へ」と向かう二人であればいいなと思う。
お互い好き同士なのでしょう。
なら、あなたの方へ。
考え方や生き方、性格はそれぞれ違う。
でもこの価値観は私は同じでありたい。
何万光年もの時間の猶予は自分にはない。
だから私ももう見送らない。
天の川に入っていける。
そんな大人の恋がいい。
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2006年07月17日 |
海の日。
ダイビングをする友人がいつか「夜の海に潜って海面を見上げると月の明かりがとても綺麗なのよ」と教えてくれたことがあった。
人魚はそうして光に寄せられるようにして
海面の方へ上がっていったのだ。
あの光の所まで行ってみたい。
触ってみたい。
月の明かりに手を伸ばして海面に顔を出したら
その明かりはうんと遠く、
手の届かない空の上のものだった。
あの日でなければ、人魚は王子に出会わなかった。
助けなければ、恋をすることもなかった。
王子は自分を助けてくれたのは別の人だと思い
真実を知らないまま、その女性を選んだ。
「あれは私だったの」と伝えればよかったのに。
泡になって海の中に消えていった。
この話を書いたアンデルセンは、私生活では失恋を繰り返したのだそうだ。
女性の悲しみが書けるのにどうして、と思う。
海の中にはたくさんの恋のかけらが漂っている。
「I love you」と砂浜に書いた文字を
波はさらって行ってしまう。
あの日、あぁしていればよかったのに。
あの日、あぁしなければよかったのに。
どうなの。
いいえ、
人魚姫は水面に上がって行ったあの時に
もう全て悔やんではいなかった。
恋をすることも
苦しむかもしれないということも
愛されるとは限らないということも
泡になることも
怖くなかった。
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2006年09月20日 |
夕方、家の近くの小道でキンモクセイの匂いがした。
昼間ここを通った時にはしなかったのに。
家の庭と同じ匂いがする。
去年と同じ匂いがする。
秋の匂いだ。
東京は実家の辺りよりも、毎年少し早い。
気のせいかなと思った。
が、やっぱりそうだ。この香り。
秋の空気がどうして好きなのか。何かが違うような気がしていたが、空気がロカされて澄んでいくように自分は感じている。ゆっくりと塵がなくなって行き、台風の後ほどではないが目の前の景色がクリアでほんの少し近付いて見える。
台風の後の方が景色は澄んでいる。
だけど秋は空気と共に心の中の塵も落としていく。
”空”の存在はちょっと大きすぎて、「同じ空の下にいる」と繋がっているように私は感じることが出来ないが、キンモクセイの香りには、もっと身近な感じがある。
「ねぇ。私のこと、好き?」
どうして
私は訊ねることが出来なかったんだろう。
簡単なことを。
サラリと聞くチャンスはいくらでもあったのに。
そんなこと、気にしない。
だって私は好きなんだから。
それでいいじゃない。
あの人の暮らす街でももうしているのかしら。
キンモクセイの香り。
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2006年11月16日 |
病院に外来で行った。
採血のあと診察まで時間がまだありそうなので、外の休憩室に行くことにした。
入院をしていた時、少し歩けるようになると売店の帰りによくここに来たのだ。ここは入院患者さん達が外気を感じにやって来る場所。すぐ外のコンビニも許可証がないと出られず、働き盛りの男性は携帯で仕事の話をすることで、社会に繋がっていることを確かめるかのように電話をしている人も多かったのだ。
今日は休憩室に行くと、若い女の人ともう一人同世代の男の人が先に並んで椅子に座っていた。女性の方は点滴棒がお共で点滴を落としている最中のようで、隣りの男の人は多分彼氏だろう。別に何か話し込む風でもなく、二人並んで座っていたのだった。
ちょっとした気遣いを彼女にする所作から、身内じゃなくやっぱり恋人なんだなと思う。彼氏の方が心配をしている気持ちは、一緒にそこに居る空気で私のところにも届いて来る。
二人は割と長い付き合いなんじゃないかな。
そんな感じだった。
彼女の方はスッピンで痩せていたが、洒落たスエットを履いた綺麗な女性だったから、街に出ればお洒落な女性に映るタイプだ。
二人はたまにはケンカもしたんじゃないかな。
でも大事な彼女だったんだ。
男の人は本当はいつでも優しい心を持っている。
でもそれをどう使っていいのか、外側に向けての方法が上手くない。上手くないから出すのをやめる。そうして自分の中に持っているだけで終えてしまうこともたくさんあるのだろう。
深読みが得意な女性なのに、そこだけは深読みが出来ない。自分がそうだから多分それは当たっている。
彼女が先に歩いて休憩室を出たけれど、そのあとに彼が行く時、彼女をかばうようにした仕草を彼女は知らない。
まるで男女のすれ違いを見るようだった。
<クリスマスまでに退院が出来るといいですね。>
彼は彼女をとても大事に想っている。
縁あって恋人になったのなら。
仲良くやっていけるように。そんなことを考えて過ごしたいなと、二人の姿を見て思ったのだった。
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2007年04月14日 |
春色の汽車に乗〜って、海に連れて行ってよ〜。
赤いスイトピーの出だしだ。
この歌がラジオから流れて来るのを聴いて、私はまだ見ぬ彼氏と「お付き合い」をすることを思い浮かべて、「恋人が出来る」ことってこういうことなんだわと思ったものであった。
あの歌詞にあった「春色の汽車」は、何故か四条大宮から嵐山に走るミニ電車、嵐電が私の中でぴったんこの電車だったのだ。嵐電は海には行かないのだが、トコトコと少ない車両の電車が走って行くところと、のどかな駅の風景がいい。
憧れたものだ。
だが、実際の私はそういった「お付き合い」に対して、免疫がほぼなかった。中学の時にあった「付き合うブーム」では交換日記をしたが、「別れブーム」が来るとあっさりと別れ、高校の時も彼氏は出来たが「付き合う」って何なのかわからないまま卒業をしたのだ。
「赤いスイトピー」の歌詞にある男女の距離感が、私にとっての「お付き合い」だったんだろう。今でもあの歌の歌詞は好きだ。
振り返ってみて、自分が恋多きだったのか、少なかったのかはわからない。
「春色の汽車」に、恋人と一緒に乗ったことはない。
私はどんな彼女だったのだろう。
だが、嫌いになってした行動は一度もなかった。
一途で甘えたな彼女だったと
本当にそう思っているのである。
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